第四節 問題点と今後の課題
ここまで博物館の入口における通過儀礼性について論じてきた。正直に言えば不備が非常に目立つ論文であることは自覚しているところである。しかし、あえて今の自分にできるだけのことをしたという達成感はある。そこで、今回の論における問題点と今後の課題について若干述べておきたい。
今回、博物館の入口を扱って行く上で最初に問題になったのは、やはり建築的な知識をまったく持ち合わせていなかったという点である。入口を扱うということは、すなわち博物館建築における入口をも見なければならないのであるが、一般的な建築の素養もない状態で建築系の専門書への挑戦は困難を極めた。非常に興味深い記述をいくつか目にしたのだが、今回、論の中に組み込んで書き上げるだけの実力を要するまでには及ばず断念した。今後の特に最重要課題として残した建築の勉強は、博物館に関わって行く上でも非常に重要なテーマ課題にもなる。なるべく早急に努力の改善に努めるとともに、より一層の幅広い分野から俯瞰した博物館像と博物館関係者における横のつながりについては、個人の努力以上に求められていることだろう。
博物館の建築を扱って行くうちにたどり着いたのが地方行政と博物館との関わりである。公立博物館に関わらず、博物館とその地域との関係は密接である。博物館を考えて行く場合に、その公共性からも来館者として一番来館を見込むことができるのは、地元の市民である。そのことからも、どう来館者と関わって行くかという問題は、地域住民との関わり方を探って行くことにもなる。今回見てきた博物館は自分の足で訪れたこともある場所を中心に、どこもその土地と密接に関わりをもって作られた博物館が多い。博物館をその館だけでなく、地域ごと考えるべきと感じるのは行政面を含め、その博物館が存在する地域社会の印象と博物館のあり方が博物館を考えて行く上でも重要であるからに他ならない。博物館を考えるならば、その土地、その地域社会がどのような目で博物館を捉え、そしてどのように利用しているのかを探って行く必要がある。
今回また国ごとによる博物館の違いをも見ていく機会があったが、これはまた各国の歴史から文化、そして思想までを含んで考えて行かなければならないことをあらためて実感させられた。個人の体験として、二〇〇〇年度の海外研修以前にも、約五年ほどアメリカ合衆国メリーランド州にて生活した経験があるが、ただ経験していただけでは見えてこない明文化された法律等の違いなどについては、インターネットなどの情報技術が非常に役にたったものの、逆に語学等の面における実力不足に泣くことになった。経験から感じ取った嗅覚による違いとも言うべき点については、なるべく論の中で追求して行こうと努力したが、やはりニュアンスの違い等を言葉で伝えるということについては、正に文化の違いという問題にぶち当たったとこになる。日本の博物館において、現在海外の事例を取り上げ、改善するためのテキストに用いることや、また海外にて博物館について学んだ人々が日本の博物館改善に乗り出しているようだが、言葉の違いに始まる基礎概念の違いは、ほんの少しかじっただけの一学生にも感じる深い隔たりであると思う。
日本とアメリカの歴史、文化についての知識もなかなか思うようにいかなかった。特に日本近代の幕開けとともに導入された博物館については、ただ博物館を探ればいいのではなく、政治、外交問題、戦争とのかかわり等一筋縄ではいかな事ばかりでてこずった。本来ならひとつひとつ丁寧に見ていかなければならない事項も、書き始めると思うように筆が進まずお粗末な結果となってしまったことには悔いが残る。博物館というテーマがこれほどまで歴史、文化、政治等と関わりを持っていたと分かっただけでも成果といえば成果である。今後の博物館研究の際に抑えるべき重要な点として大きな課題を残した。
地域と博物館を結びつける学問として、最近都市環境学のようなものが取り上げられるようになった。これは地域の住環境に始まる一つの町や市における総合的な環境設計と行政上の環境問題を扱った分野の学問で、今後よりいっそう地方、地域、都市ごとにおける環境設計の重要性が取り上げられることになるだろう。そのなかで博物館もこの都市環境のなかに組み込まれた施設の一つである。これまで展示重視だった博物館が、ようやく重い腰をあげ、地域やその住民とどのように関わって行くかを検討する機会でもある。教育面での博物館への期待が高まるなかで、独自の教育方針を打ち立てるとともに来館者との関わり方を模索して行くことは、今後日本における博物館がどのような存在になって行くかを決定する重要な課題でもある。
日本の博物館については、批判が多く、その努力があまり評価されないようであるが、その問題の一つとして評価方法の確立がまだ普及していないことが原因として挙げられる。現在ようやく少しずつではあるが、展示評価(エバリエーション)が広まりつつある。現在アルバイト経験をさせてもらっている千葉県松戸市立博物館もエバリエーションを始めた博物館の一つである。これまで博物館の評価といえば来館者の人数による数値化によってのみ、経営面での評価が目立っていた。しかしそれでは博物館の本質でもある展示に対しての効果的な改善策すら明確な評価基準によって見てきたことがなかったといえよう。それでは博物館が十年前と同じといわれても否定できないのである。
今回博物館を見ていく上で、さまざまな体験をさせてもらった。博物館の裏側である学芸員との対談やアルバイトもその貴重な経験の一つである。そこで分かったことは、博物館は裏に入り込まなければ、その実態が非常に見えにくい存在であるということである。博物館に来館者が訪れたとしても、そこで直接対応してくれるのは博物館職員ではあるが、展示に関わりをもつ学芸員がじかに来館者と関わりを持つというのは、一般来館者であればあるほど遠い。もちろんまったく関わりを持っていないわけではないが、来館者調査というような明確な調査方法を用いることで、博物館側はもう少し来館者との距離を縮めるべきではないかというのは、「べき」論になってしまうがやはり感じるところである。
日米の博物館を見ていく上で、一番に感じたことはこの博物館と来館者との距離である。入口論を扱って行く上で博物館のメッセージなどを見てきたが、日米の博物館の決定的な違いは博物館と人々の距離の違いでもあるだろう。これは博物館における入口機能の他に、入った時に受ける心理的抵抗感とも関連した、非常に個人的な直感に過ぎないのであるが、やはり日本の博物館ではその緊張感がなかなか解かれることがないと感じる。展示室に入れば薄暗い中、解説員ではなくまったくの監視員が随所に座り、時に来館者を監視し、時に眠っている姿を目にすると、博物館とは見張られなければいけない空間であるのかと感じるようになるだろう。一方でアメリカの博物館にももちろん監視員や警備員は存在する。もしかしたらその数は日本の博物関よりも多いかもしれないが、しかし彼らは来館者の博物館体験の妨げになることはない。何か困ったことがあれば気さくに応じ、またゆったりと展示と対面しているときも空気のように邪魔をすることはない。その存在から威圧的な態度やよそよそしいサービス的な感情も生まれない。
博物館一つをとっても、まだまだ具体的に調査し、見るべき点はたくさんあるだろう。今回の論文では、その足がかりを掴んだに過ぎない。調べれば調べるほどますます分からないことが増えて行くというのは、ある意味恐怖であり、ある意味ますます好奇心と興味が増していく結果となった。細かい点をあげればきりがないが、博物館の入口は日本文化ではないと言われたときからここまでようやくたどり着いた。これからの問題はまた今後の課題として扱って行くこととし、博物館の入口についての論をここで一旦切り上げることにする。
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