第3章 入口とは何か
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第二節 入口空間 どこを通って?

入口の線引

 博物館に入るとき、避けることの出来ない場所が入口である。しかし一言で入口といってもその言葉が示す場所と、実際の空間としての入口にはギャップが存在してしまう。第一節では博物館入口における基本的な考え方とその機能について見ていったが、ここではまず空間としての博物館入口についてみていきたい。
 まず見ていただきたいのが資料十六と資料十七の二枚の写真である。この二枚はそれぞれアメリカ、ニューヨークにあるメトロポリタン美術館と、同じくワシントンDCにある国立ホロコースト記念博物館の入口である。なぜこの両者を取り上げたのかというと、アメリカといわず、博物館の入口においてとても両極的なこの二つの入口形式が、実はほとんどの博物館に当てはまる入口パターンの二つなのではないかと感じるからである。その違いとはどこからが博物館の内部であるのかという問題である。
 メトロポリタン美術館の入口は、広々としたホール式の入口である。広場的とも呼べるこの入口は、来館者にとっては正に待ち合わせ場的な意味を持ち、そして博物館の建物の中でありながら、まだ外部的な要素を持った空間でもある。その理由は料金システムの違いと呼べばよいのであろうか、つまり一体どこで入場料金を支払いチケットを買うかという問題とも一致している。
 一方の国立ホロコースト記念博物館では、入館料は無料であるが展示を見る場合には整理券を必要とする。そして写真に写っているのはセキュリティ・チェックである。博物館でセキュリティ・チェックを行うという話は日本では聞いたことがない。この問題はまた後に詳しく言及していきたいが、まるで関所のように一人一人の来館者をチェックする博物館の入館システムは、単に有料の場合にチケットの購入・確認を行う以上の意味合いが博物館にとってはあるように感じるのである。

料金システムと入口空間
 博物館に入る場合、無料で展示を見られる博物館というのは稀である。世界的にもアメリカのスミソニアン博物館群はすべて無料で入れるという点でも有名であるが、特別な理由がなければほとんどの博物館では入館料を徴収される。この入館料の支払いはチケットの購入と同義であることが多いが、博物館によってはチケットとの交換はない場合もある。チケットを購入する場合、アメリカでは特に再入場のためのチェックとしてチケットの提示を求める場合に必要であることが多いが、日本の博物館では再入場は不可とチケットの裏に書かれていることが多いようである。
 チケットの購入は、入館料の徴収だけではなく、どこからが博物館の内部であるかを示す手がかりとなる。博物館に入る際、建物の外でチケットを購入する場合は、建築上の境界がそのまま博物館内部と外部の境界線にもなるのであまり問題ではない。注意しなければならないのは、博物館の建物の中に入っていても、実際にはまだ展示はなく入口に入ってからチケットを購入し、展示の入口ではじめてチケットの有無をチェックされる場合である。この場合、チケットを買う入口内部は誰でも自由に出入りが出来る空間となり、博物館の内部でありながら一般の道路と同じ公共性が備わっていることになる。 
 博物館の入口に注目して初めて気付いたことであるが、博物館が公共のものであるといっても、誰でも自由に入って見ることの出来る博物館というのはごくまれであるということである。スミソニアン博物館群を除けば、来館者はチケットを購入することによって展示を見る権利を買い、そしてまたチケットを購入しない者は展示を見る資格をもっていないとみなされることである。この入館料についてはさまざまな問題が絡んでおり、一概に良い悪いの問題ではないことは承知しているが、ただ博物館の売上として見ることも安易である。
 博物館に入る際、どこでチケットを買うのかという問題は、博物館の内部空間と外部空間の境界空間の線引を見るうえでも重要である。メトロポリタン美術館の場合、博物館に入ってすぐの大広間までは、入館料を払わずとも誰でも自由に出入りすることが出来る。これはまたミュージアムショップの利用とも関わるのであるが、この無料空間はただチケット販売の場所だけではなく、インフォメーションやクローク、そして博物館の運営に今や欠かせない存在となりつつあるミュージアムショップへの利用がだれでも入館料を払わずにできるということを意味している。
 つまり入館料を支払わなければならない理由は、ここではずばり展示を見る行為に対しての代償となっており、それ以外の博物館体験であるミュージアムショップの利用やインフォメーションで情報を得るということについては無料サービスということになる。これはどういうことかといえば、博物館の活動内容が展示とそれ以外のサービスというように分けて考えられていることを意味している。博物館に入ると一言でいっても、その内容にはさまざまなレベルが存在することになる。これまで博物館に行くといえば、博物館の展示を見ると同義語であったのであるが、メトロポリタン美術館のように大規模な博物館になると、展示を見るだけが目的ではなくなり、博物館に買い物を目的に来ることも可能となったのである。
 博物館に訪れる目的の多様化は、博物館の存在意義の拡大とともに定着しつつあるようだが、このことはより一層の博物館の明確な目的がなければ、単なる商業空間として扱われてしまいかねないという問題をはらんでいる。少なくとも、メトロポリタン美術館のような巨大博物館にとって、ミュージアムショップの充実やレストラン・カフェなどの諸機能は博物館の魅力の一つになりこそすれ、博物館の中心である展示を脅かすようなことにはならないだろう。しかし、一歩間違えば博物館の存在目的がすりかわってしまいかねないのだが、博物館の入口にはこのような博物館の持つ多様な機能を持ち合わせていることが多い。
 料金システムと博物館の入口の関係は、チケットの購入場所と展示の入口においてチケットを提示することで展示空間へと入るための有資格者かどうかの確認がされる。これにより博物館側は明らかに博物館の中心空間としての展示空間と、それ以外の空間とを分けていることになる。つまり博物館は、入口において来館者を取捨選択しているのと同時に、空間的にもそれぞれの意味を区分して考えていることが分かる。(博物館の入口は来館者と博物館職員の入口が別れていることも、博物館内部における機能によってそれぞれの意味をもつ空間への区分となっていることも抑えておきたい)

広場と関所
 料金システムによる博物館の入口空間の決定については、どこでチケットの購入をするかが大きな線引となる。ではその線引で作られた空間の違いについて見て行くと、メトロポリタン美術館のように、建物の中に入り入口空間にてチケットおよび博物館の情報を得る「広場」的な入口空間と、対極に位置する国立ホロコースト記念博物館のような「関所」的な入口空間の二つの比較から見ていくことが出来る。
 メトロポリタン美術館の入口は吹き抜けの広い空間を持つ「広場」的な入口だといったが、この「広場」的といのは空間の広さだけでなく、誰でも自由に入れる場所としての意味合いも併せ持っている。展示の入口では警備員が常にバッジ状の入場券をチェックし、バッジをしていない者の入場を見張っている。真ん中には二つのインフォメーションが配置され、英語だけでなく海外からの旅行者にも対応した各国語の案内やツアーの申し込みを受け付けている。またクロークやミュージアムショップといった誰でも利用可能なこの入口は、博物館内部でありながら、道路と同じ一般空間としての機能も有しているという指摘は前にした。
 ここでは博物館に入ること自体は、何のチェックも表向きはないことになっている。もちろん博物館に用のない人は入らないだろうが、博物館に展示を見に来るだけではなく、買い物にくるという目的も可能にさせた入口空間は、博物館の建物の中にあるという意味においては、博物館の内部空間であるが、博物館とは展示であるという各個たる意思によって博物館でありながら博物館ではない空間として、外部と内部空間を繋ぐインターフェイス(中間領域)と呼ぶことが出来る。
 一方で国立ホロコースト記念博物館では、入る際にセキュリティ・チェックを受けるという念の入れようで、誰でも入ることは出来るが、しかしいつでも自由にというわけにはいかないことを示している。このセキュリティ・チェックに関しては、アメリカに行った際、国立ホロコースト記念博物館以外に(注三六)二つの博物館で経験した。一つはニュージアムというニュースを取り扱った新しい博物館であり、もう一つは独立宣言の原本を展示している国立公文書館である。二館ともワシントンDCにある博物館であるが、共通していることは展示している内容が高度に政治的意味を有し、社会的にも必ずしもすべての人に受け入れられるとは限らない内容を展示しているという点であるだろう。
 国立ホロコースト記念博物館は、第二次世界大戦中に起きたナチスドイツでの大量虐殺を扱った博物館で、その展示の内容から来館者の年齢制限を行って(注三七)いる。実際に博物館の展示を見ていくと、戦争の悲惨さといった単純な感想ではなく、人間の狂気について考えさせられる博物館であるが、使用されている当時の映像には、人が殺されるシーンなどは当然であり、物として転がっている死体の山や数々の遺留品が展示されている。映画などでも暴力シーンが含まれたり、少しでも性的描写のある映像を子どもに見せる場合、常に親の(注三八)許可等で、各家庭の教育方針に配慮するアメリカ社会だからこそ、逆説的だが実現できた博物館展示の一つである。
 展示の内容からも入口でチェックをする理由は理解できるが、金属探知機を使用したセキュリティ・チェックという念の入れようは、正にアメリカ社会を象徴した博物館の入口である。ユダヤ人のナチスによる差別、虐殺にしても、歴史的には知識として認識していても、やはり他の国の出来事という、心理的な距離感はどうしようもないかもしれない。ましてや第二次世界大戦における歴史的な教育がタブー視されている日本人にとって、ホロコーストなどは物語的であるだろう。しかし、多民族、多宗教を内包するアメリカ社会において、ホロコーストという歴史は、まだ現実に生きている人がいるという事実以上に、リアルな現実問題なのである。
 金属探知機での身体チェック、そして厳重な警備員の数から見ても国立ホロコースト記念博物館の存在は、平和的な余暇施設の博物館とは一線を引いた存在である。しかし博物館とはまさに歴史を扱う空間であり、国立ホロコースト記念博物館の存在を例外として判断することは、これからの博物館のあり方を見ていく上でも重要な存在であると認識を強くしておきたい。そしてこの博物館はまさにアメリカ社会における博物館の存在そのものを、別の角度から見る上でも重要な意味をもつだろう。
 セキュリティ・チェックを受ける博物館の入口は、正に「関所」という言葉がピッタリ当てはまる入口である。そこでは同然のごとく拳銃の存在が示唆されている。博物館の建物のドア前には、ワシントンDCでは銃器の持込が禁止されている条例を提示し、万が一の危険、つまり来館者の誰かがナイフや銃などの武器を持って入り、さまざまな意味と理由で人に危害を加えることを警告している。これは正に歴史が現代でも生きている事例の現れであり、またアメリカという国がどのような社会であるかということを表す例でもあり、そしてこのアメリカ社会において、このような危険を冒してまでも博物館を作ろうとした人の熱意が伺えるのではないだろうか。
 博物館がもつ目的を示すのが博物館の入口であると最初各引用からうかがうことができたが、国立ホロコースト記念博物館の場合は正に「歴史の記憶」であり、その目的のためならば、入口にセキュリティ・チェックを設置してでも博物館を運営する価値があると判断した人々と、それを受け入れた社会文化があるからこそ開館した博物館であるだろう。
 
階段・トンネル・橋

 博物館の入口における線引と、広場と関所という空間的な違いを見てきたところで、その他にもどのような入口空間を通ることで、来館者は博物館の展示空間へと入って行くのかと見て行きたい。
 博物館の入口で特徴的なものに、階段とトンネル、そして橋という空間を見ることができる。階段については第二章でも見てきた新古典主義建築に多く見られる大階段があるが、博物館に入る時に、建物に入る際に登る大階段の他、建物の中の入口空間に配置された大階段も存在する。これは展示室に入る時に、展示の入口として大階段がある場合であり、日本でいえば上野にある東京国立博物館の本館の大(注三九)階段や、広場に続きメトロポリタン美術館の外と内の大階段、そしてボストン美術館の大階段などがある。
 またトンネルというのはニューヨークのブルックリン子ども博物館が正にトンネルを通って展示室に入るという形をとっており、日本では博物館の入口そのものがトンネルというのは見かけないが、展示の入口として「タイムトンネル」という形式が、千葉の佐倉市にある国立歴史民俗博物館をはじめ、いくつかの博物館で採用された形式である。
 そして橋というのはまさに社会と博物館を繋げる架け橋であり、ニューヨークにあるホイットニー美術館(注四十)の入口が地下の空間を隔てて美術館に入るための境界となっている。日本では東京国立博物館の法隆寺宝物館の(注四一)入口などが橋と呼ぶことが出来るかもしれない。この法隆寺宝物館は、建物の前に水が張られ噴水を楽しむこともできる水を境界にして橋を渡って博物館に入るという形式をとっている。 
 階段、トンネル、そして橋といった境界としても注目される入口における各空間設定は、博物館に入るということを、日常世界から隔たれた非日常世界であるとの解釈を可能にする。特に大階段は、下からでは上にどんな空間が待ち受けているのかを見知ることの出来ない装置として、神社の参道などにもよく見受けられる。

   階段にとって人間の立った時の眼の高さ、一メートル五〇センチ前後の高さというものは、大変に意味のあるものである。もし眼の高さより階段が高ければ、上のB面は視線に入らないが、眼の高さよりも低ければ上の面Bは視界に入る。視界に入るということは、領域的に言ってAとBとが結合されることを意味する。しかしながら、もし視界に入らなければ、BとAとは視覚的に別々な領域に入る。神社の階段が急で段数も多く、領域的に区分して何事がおわしますのか下から判断できないようにして神社の森厳さを演出していることは、われわれの日常の経験するところ(注四二)である。

 博物館の大階段が権威的と呼ばれるのも、博物館が自らの森厳さをアピールするために使用したかどうかは不明だが、少なくとも来館者にとって目のまえに大きく迫る大階段は非常に威圧的に感じる。そして日常生活において階段は通路の一部であり、各階層を行き来する以外の目的を必要とはしていないため、一体何の理由であれほどまでの大きな階段が博物館の建物に必要であったのかを理解することはできない。地理的条件で階段が必要と言うわけでもなく、メトロポリタン美術館やナショナルギャラリーの大階段は平坦な場所にわざわざ設けてある。
 バリアフリーが社会福祉の一旦として各施設や公共空間で叫ばれている今日において、博物館の見せ付けるような大階段は時代のニーズと真っ向から対立するものである。第二章で若干指摘したが、アメリカの博物館年表を見る限り、アメリカの博物館においては確実に建物の正面に配置される階段は姿を消し、また仮に階段があったとしても必ず車椅子などの障害者や高齢者に配慮したスロープやエスカレーターが配置されるようになっている。博物館が公共の施設であるならば、この階段は確実に来館者の選別をしてしまうため、平等の精神に欠けるとして博物館以外でも避けられる傾向にあるのがアメリカ社会である。

通路としての入口

 博物館に入るために必ず通らなければならない入口であるが、通路しての機能を有しているのは当然のことである。ここで取り上げる千葉県松戸市立(注四三)博物館の入口は、単に博物館の入口としてだけでなく、博物館がある公園内へとつづく通路としての機能も果たしている博物館である。
 通常の博物館入口は通路である。けしてそこで立ち止まり腰をすえる場所ではない。博物館の展示空間へと入るために通る場所であり、さまざまな機能を有してはいるが、博物館の入口は目的ではなくあくまでも通過点に過ぎないのである。しかしこの松戸博物館は、博物館そのものが通路としての機能を展示を同等にもっている博物館の例である。来館者は博物館に来ることを目的としている場合ももちろんあるが、それ以外にも博物館が公園への入口としての役割も担っているため、通過地点として利用されることも多い。公園の入口でもあるため入館料は取らず、博物館の展示を見たい人は展示の入口で入場料を払い、二階にある展示室へとつづくスロープを登っていくことになる。
 博物館の入口が同時に公園という自然空間への入口にもなっているという例であるが、この場合博物館の入口として来館者の興味を引くよう足を止めさせる工夫は特にされていないようである。通路としての役割を重視しているとの解釈も成り立つが、その場合博物館はあくまでも公園の付属物としての立場が強調されているようにも感じる。現在のところ博物館利用者が少ないというわけでもないらしく、公園利用者との共存関係は良好のようである。また公園利用者にとっては博物館は通路であると同時にトイレ休憩や喫茶店利用での一服する場所としても提供されていることをみると、博物館利用の考え方の一つのあり方を示しているといえるだろう。展示のみに限定されていない博物館利用法の確立は、どこまでその地域に受け入れられるかといった基本的な博物館のあり方を考えさせられる。
 
導線のはじまりとしての入口
 博物館の入口の基本的な考え方は「知の入口」「イメージと体験を結びつけるスペース」そして「メッセージ」の三点であったが、博物館展示の導線におけるスタートポイントとしての入口というのも欠かすことの出来ない基本的な考え方である。これは「知の入口」の中に入ってしまうのかもしれないが、導線の始まりとしての入口は、より具体的な意味合いをもつ。
 博物館の展示を見る際に、その導入部分におかれ来館者を展示へとスムーズに導くための展示を「導入展示」と呼ぶが、この展示はその博物館がどのような展示をしているのか、これからどのような展示を体験して行くのかのまさに導入体験である。
 神奈川県立歴史(注四四)博物館では平成7年度の改装時に、博物館の入口内部に導入展示を設ける場所を設置した。しかし実際の展示空間としては入口からチケットを購入して入るために、性格には入口と呼ぶことはここでは出来ないのであるが、しかし実際他の博物館を見ていくと導入展示と言うよりは、その博物館を象徴するかのような展示を入口に配置する博物館は多く見受けられる。この入口に展示された博物館の象徴はシンボル展示と呼ばれて(注四五)いる。
 神奈川県立歴史博物館はまた、入口のある一回部分を無料開放することで、誰でも気軽に博物館に足を運び、時には無料の企画展示を通路に設けることで、博物館活動の活性化とより県民に受け入れられやすい博物館を模索している。無料スペースには喫茶店やミュージアムショップ、そしてミュージアムライブラリーも配置されており、展示を見なくても博物館が利用できるよう工夫を凝らしている。

シンボル展示について
 博物館の入口といったとき、真っ先に思い浮かぶのがアメリカのスミソニアン博物館群のひとつである国立自然史博物館の(注四六)入口内部である。ここには二階までの吹き抜けになったエントランスホールに、世界最大のアフリカゾウの剥製が来館者を出迎えるように展示されている。まさにこの国立自然史博物館のシンボルであり、また来館者のイメージを体験と結びつける絶好の導入展示でもある。
 ニューヨークにあるアメリカ自然史(注四七)博物館では三つの入口があるが、そのすべてでシンボル展示が配置されているのは興味を引く。特に各入口からつながる展示室と関連したシンボル展示がおいてあり、本館の一番古い入口にはカヌーに乗った先住民族の展示があり、民族学的な展示へと続く。また正面入口でもあるセオドア・ルーズベルトホール入口には、吹き抜けホールに見上げるほどの二頭の恐竜の骨格標本が堂々と展示され、この博物館でも最大の魅力である恐竜展示への導入となっている。そして二〇〇〇年にオープンしたばかりのローズ宇宙センターはその入口が一面ガラス張りになっており、中の展示空間に浮いている太陽系の惑星(ミニチュア展示)が外からも見え、まさに宇宙についての展示を表現している。
 日本でも国立科学博物館などの入口には恐竜が展示されており、二〇〇二年六月に開催されたワールドカップに合わせた各国立博物館の催し物のなかで、東京国立博物館の門の前には「こちらは恐竜の展示がある博物館ではありません」というような注意書きがあったことが記憶に残って(注四八)いる。
 博物館にとって入口にあるシンボル展示は来館者にとって記憶装置にもなっている。つまりとある博物館に行ったとき、展示がその博物館を言い表す代名詞になると以前述べたが、このシンボル展示こそ博物館の代名詞になりうる展示といえるだろう。もちろん目玉展示を最初ではなく、展示室の奥深くにしまいこみ、幾多の展示を見た後ようやく最後の方になってから拝むことの出来るような秘宝的な存在としての展示もある。しかしここでいうシンボル展示とは、来館者の記憶にのこりかつまた再び博物館に訪れたとき懐かしさとともに出迎えてくれる効果をもつ展示を指すのであり、ただ展示替えを行っていないがために何年も同じ展示が置いてあるといった消極的な展示とは違うのである。
 博物館に入って最初に眼にする展示とは、その博物館のイメージを決定しかねないほどのインパクトを持っているものである。もし下手な展示資料を入口に配置してしまった場合、記憶に残らないだけならまだしも、最初につまらないという印象を受け付けてしまうようではシンボル展示としては失格ということになる。
 シンボル展示と呼ぶ以上に、展示室としての入口を持つのが国立航空宇宙博物館である。この博物館の特徴はまさに入口であり、ガラス張りの建物正面を見上げれば所狭しと展示されたロケットや飛行機宇宙船などが出迎えてくれる。そして博物館の中に足を踏み入れれば、そこはすでに博物館の展示が押し寄せる展示空間であり、ここではその展示体験を邪魔しないように、人の配置されたインフォメーションなどの案内は奥に引っ込んでおり、無人の案内デスクの上にパンフレット資料などが自由に手にすることが出来るよう配置されている。  
またこの航空宇宙博物館の入口では、ドアを抜けるとその正面にあるのは寄付箱であり、透明な箱の中には一ドル札やコインなどが入れられている。この寄付箱は東京国立博物館にも設置されるようになったが、それも独立行政法人法の施行後のことであるようである。

アーケードになった入口

 こうして各種の博物館入口を見ていくと、少しずつその入口にも変化が見られるようになってきている。時代の変化として博物館の入口を捉えることは、途中改装の手が入ったりするため一概に建築の年代と同じと考えることは出来ないが、しかし大まかに建築上において見るならば、博物館の入口空間は次第にアーケード化していっているのではないかと感じるのである。つまり、これまで見てきた中で階段やトンネルといった通過空間としての入口から、次第に入口内に展示を置くようになり、展示だけではなくミュージアムショップやレストラン、カフェへと続く博物館体験のはじまりの空間として、さまざまなオプションを追加しつつある。それは屋根のついた通路としての入口であり、展示へと来館者を導く空間としての役割をさまざまな形で挑戦して行っているようにも見受けられる。
 


→第3節「入口から見た博物館」
文章作成2002年7月9日
HP作成2003年1月6日 
文責:管理人 無断転載禁止

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