第二節 開かれた博物館
イメージの種
博物館とは何かを探るために、まず博物館のイメージについていくつかの例から見ていったが、これは博物館とは何かを見ていくうえで、イメージの重要性を感じたからである。イメージとは何の種もなく芽が出るように作られるものではない。そこには何かしらイメージの元になったきっかけが存在するはずである。博物館の場合、それは人からの噂や個々人の博物館体験に基づくことが多いのではないだろうか。つまり、おそらく多くの日本人の場合、初めて博物館に訪れるのは小学校などでの見学であろう。そのときの見学方法を調べてみるとどうやらクラスごとに一列に並び、展示室の中を並んで見学するといった様子が浮かび上がってくる。これは二十代前半の人はある程度共通した経験のようである。義務教育以前に博物館に家族と一緒に訪れたことのあるという人は、統計を取ったわけではないので推測になってしまうが、少ないように感じる。何より、学校にしろ家族と一緒にしろ、初めての博物館体験で楽しかった思い出のあるという人がどうやら少ないのではないかという印象をもたざるを得なかった。
博物館に対して抱くイメージは、日本人の場合どうやら共通しているようである。「重々しい、暗い、閉鎖的、古い、疲れる等」明らかにマイナスイメージで博物館イメージは作られている。このアンケート調査が行われたのは十年以上前になるが、いまだにこのイメージは完全に払拭し切れていないようである。特に八十年代から新しくできた博物館は、それまでのマイナスイメージをなんとか覆そうと努力している傾向が見られる。それは各博物館の要覧等の冒頭に載せられる言葉で、いかに「開かれた」博物館という記述が目立つかでも明らかである。「開かれた」とわざわざ言葉にしてアピールしなければならないほど、博物館とは「閉じられた」場所であり空間であったことが伺えるのではないだろうか。
開かれた博物館とはではどのような博物館であろう。それは二つ目の例にあげた引用の中で「なぜ、こうして、人々は、美術館に集まるのだろうか?」という問いがヒントになるようである。もし、博物館がもともと開かれた場所であるならば、日本人にとっての博物館はそれほどマイナスイメージで埋め尽くされることもなかったのではないかと考えることもできる。つまり開かれたとは、「軽々しい、明るい、開放的、新しい、楽しい」といったプラス(?)のイメージを与える言葉の代表として使われていると受け取る方は単純に考えてしまいがちである。しかし、ではアンケートで得た博物館イメージは本当にマイナスイメージとしてしか捉えることはできないのだろうか。ここに、博物館の内と外の考え方のギャップを捉えることができる。
博物館の内と外
博物館の外の側である来観者は、アンケートの結果を博物館のマイナスイメージと捉えるだろう。しかし、博物館の内部の人たちは必ずしも悲観的にこの博物館のイメージを捉えてはいないようである。すなわち、「重々しい」は神奈川県立歴史博物館の旧横浜正金銀行の建物の(注九)外観から、とても重厚で伝統のある建物の良い点であり、また「暗い」というのも博物館の展示保護のためにはどうしても展示室は暗くなってしまうのはしかたのないことである。また「閉鎖的」というのは解決すべき問題で、神奈川県立歴史博物館は平成七年の改修工事で(注十)エントランスを明るくし、その前から一階の回廊部分はフリーゾーンとして誰でも自由に出入りできた場所であったところに、新たにチケットカウンターを建物の外で購入するのではなく展示室入口に設け、喫茶室、ミュージアムショップをエントランスホールに置き、入りやすい博物館とイメージの改善とともに実質的な改善策をこうじている。また迷路のようだった導線を解消し、自由に選択できる導線を導入することで、さらに開かれた博物館としてのあり方を現実のものとして捉え、実践しているようである。
この開かれた博物館という表現は、何も建物の「入りやすい」「入りにくい」だけを指しているわけではない。博物館のあり方として誰にでも開かれた博物館という意味が含まれているからである。それは、博物館の成り立ちそのものの問題とも絡むことであり、また博物館がどのような存在として社会の中で位置付けられているかといった点も考慮してみて行く問題である。よって博物館の建物的に「開かれた」「閉じられた」、「入りやすい」「入りにくい」といったイメージがどこから来るのかを、博物館の外観から見ていく方法をとってみたい。
日米博物館イメージ論
旅先で美術館に立ち寄る人は多いという指摘は、最初の引用でしたものであるが、この事実はどう博物館のイメージと結びつくのであろうか。海外の博物館に対するイメージは非常に良いようである。それを単に日本の博物館はダメ、海外の博物館は素晴らしいといった単純な見かたで片付けられるものではないだろう。近年、日本の博物館について「欧米ではこうなっている、だから日本の今後はこうあるべきだ」論は、あまりにもそれぞれの博物館の歴史をはじめとする、国内の事情や文化をまったく無視して進められがちなお説教論である。そうではなく、なぜこのような違いが現れ、そしてイメージにまで結びついたかを探っていくことは、更には博物館の入口におけるしかけとしての通過儀礼性を見る上でも、非常に重要なステップであると考える。
博物館の入口とは何かは、つまるところ博物館とは何であるかを明らかにしなければ見えてこない。その中で、博物館とは何かをまずイメージから探っていくのは、イメージの元となった博物館そのものや博物館での体験が元になっているはずである。博物館のイメージを作り上げたものは、具体的にはなんであるのかを見ていくことで、実際の博物館と博物館イメージの結びつきが明らかになる。日本の博物館が非常にマイナス的なイメージに彩られ、博物館自身がどうにかプラスのイメージに転換しようと己の立場(つまりイメージ)を振り返ったとき、そこに現れたキーワードは「開かれた」博物館である。しかし単純に開かれた博物館と言葉でいうのは単純であるが、では実際にどう開かれているのかを見ようとしたとき、そのポイントとなるのが一つ、建築である。
博物館のイメージに繋がる博物館建築とは、正に博物館の外観を示す「ハコ」である。最近まで(今でもそうかもしれないが)日本の博物館は「ハコもの行政」と呼ばれ、非常に批判の的になっていた。つまり、博物館を設置する際、その内容やテーマ、コンセプトといった博物館を建てる上で基本となるべき中身がないままに、とりあえずまず建物を建て、その後に展示の内容や、具体的な資料の収集また学芸員といった中身を入れていくという、中身が空っぽの状態で作られた博物館等の関連施設を皮肉って呼んだ名称である。そのため、博物館の外観は、内容が伴わないままコンペなどで著名な建築家やデザイナーに決定されてしまうという、まことに本末転倒と呼ぶしかない状況が非常に多く出現したのである。
日本の博物館が、特に行政面で非常に批判を呼んでいるのは、莫大な税金を使って、中身のない博物館という娯楽施設の建設にだけ費用を投じ、その後の運営・維持費等の出資まで考えず、非常に記念碑的な作られ方をしたという点である。結果、現在博物館は税金の無駄使いの対象として経費削減の憂き目にさらされているが、問題は博物館の運営には非常にお金がかかるという認識がまったくされていないという点である。なぜなら、博物館の運営や博物館の有する資料の維持費・保管に使われる費用は、とても入館料だけでまかなわれるようなものではない。しかしまずハコから作ってしまった日本の博物館は、その内容評価はすべて数値化され、入館者数という数のみの成果がそのまま博物館評価に繋がってしまっているのが現状のようである。これでは博物館は完全に商業市場の中に放り込まれ、その評価対象はまったくの金銭的側面でのみ計られる事になる。だが、博物館とは本当にそれだけのものであるのだろうか。
ハコのイメージ
博物館とは何かを見ていくとき、そのイメージは体験と結びつき、そして博物館の体験とはなんであるかが今度は問われてくる番である。しかしその前に、まずは博物館の「ハコ」について取り上げてみたい。日本の博物館が、その建設状況から先に建物が出来上がってしまう経緯は取り上げて見たが、一体それが博物館のイメージにどのように関わってくるのかを見ていきたい。その際、日本の博物館と比較してアメリカの博物館を取り上げることにする。
これは、アメリカの博物館を実際に自分の足で見て回れた経験が元になっているからである。博物館は本の上の二次元のものではなく、きちんと空間をともなった三次元の場所である。そこではただ視覚のみではなく、五感を使った身体体験の場なのである。つまり展示を見るだけの視覚をつかった体験に留まらず、最近では展示に触ることをはじめとするハンズ・オンと呼ばれるような体験型の展示や、現代の博物館では欠かせない機能となった博物館での食事(味覚)はときには他のすべての体験よりもはるかに記憶に留まる経験になるかもしれない。そして博物館は空間であり、空間は空気を持っているのである。博物館に入ったときに吸い込む博物館の匂いというものは、そこを博物館という名の空間に高められるか、もしくはそこで少しでも別の要素をもった匂いがすれば(例えば食事の匂い)、たちまちそこは博物館から別の場所へと変化してしまうであろう。
博物館を作り上げている要素は、展示だけではないのである。そこには非常に様々な経験がともない、そしてまたその経験が博物館を作り上げるのである。もし、博物館に行ったのにそこをテーマ・パークやレストランといった印象の方が強くなってしまったのであるならば、それは博物館としてはなにか間違った方向に行ってしまったといわざるを得ないのではないだろうか。話がまたずれてしまったが、博物館を博物館たらしめているはずの一つ、建築の、そのまた外観のみに注目して日米双方の博物館を次の章で見ていきたい。
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