序章 博物館の顔

博物館の顔
 「博物館の顔は展示である」という記述を以前目にしたことがある。残念ながら出典が見つからないのだが、それでもこのフレーズだけはしっかりと記憶していた。前後の文脈も実は定かではないので、一体どのような意味合いでこのフレーズが用いられたのか、今となっては推測しかできない。おそらく博物館にとって展示とはその代表であるといったような意味で使われたのではないかと思われる。確かに、博物館にとって展示とは最も人に認知されやすい博物館活動の中心である。しかし、このフレーズを目にしたとき、私はすでに別のものを博物館の顔≠ニ呼んでいた。その為にこのフレーズだけが記憶に残っていたのだろう。
「博物館の顔は入口≠ナある」
 これが、展示ではなく入口に焦点をあって博物館を考えてみようとする私の意見である。
この入口がなぜ博物館の顔になるのか。その理由は非常に単純である。博物館に限らず、、すべての建物に当てはまることだが、建物を識別するにはまずその外観(ファサード)で見分けるであろう。
例えば、初めて行く場所を探すとき、迷ってしまうのは本当にその建物が目的の場所であるかどうか、建物の外観だけでは判断がつかないからである。そのため、私達は建物の名前に注目する。そこで建物の名称によって目的の場所で間違いないと確認できればなにも問題はない。
しかし次のような場合はどうだろう。極端な例であるが、とある人が法律事務所へ行こうとする。住所、そしてビルの名称はあっているのだが、入ってみるとどうも様子がおかしい。法律事務所といえば、お堅いイメージのある、どちらかといえば地味な印象の場所ではないだろうか。そう思って訪れた相談者だが、ビルの中に入るとそこは軍艦マーチも華々しく、ジャラジャラジャラとあちこちで響き渡る大フィーバーとタバコの煙、ではどうだろう。人は誰しもそこはパチンコ店であり、法律事務所ではないと判断するだろう。
 例えが極端になってしまった上に、実際のパチンコ店に入った経験がないので、現代のパチンコ店はもしかしたらイメージが変っているかもしれない。しかし、この例えで言いたいのは、建物の外観と中身が一致しないことが現実ではそう滅多に起こらないという点である。
建物の外観にはそれぞれの中身の用途に応じて少なからず目印があるということである。そうでなければ、私達は自分たちの目的を達成できない。つまり、私たちの多くはそれぞれの建物――それはスーパーマーケットであったりデパートやその他、銀行、学校、会社、工場等――の内容と建物の外観イメージを結び付けて考えているのである。
 先ほどの例にもう一度戻ると、もし建物とビルの内容が一致しないという事態が現実におこった場合、訪れた相談者はもっと事前にそこが法律事務所ではないと判断するだろう。そうでなくとも、少なくとも疑いを持ったはずである。なぜなら、現実の街にある建物は、写真と違ってただ視覚でのみ認識するわけではない。すでに近くにきた時点で、建物の中からもれた音を聞き取っているはずであり、タバコの匂いや周辺の人の様子を観察することができただろう。もし建物がガラス張りであったのなら、遠くからでもガラス越しに中が見えたはずである。それでなくとも現実には多くの場合、建物に大きく「パチンコ」と書かれた看板があるなどしているので、間違いなく法律事務所ではないと判断できただろう。もちろん、この例は雑居ビルであったり、実はパチンコ店風の法律事務所であったというような場合、話は別である。ここで述べたかったことは、それぞれの建物は内容の種類によって何かしらのイメージを持っており、障害をもっている人を除き、人は少なくとも視・聴・嗅の三つの感覚でその場所を判断していることになる。
 話を博物館に戻すと、博物館という場所にも特有のイメージがあるはずである。博物館といえば展示であるが、だからといって人は直接展示の中に入れるわけではない。何らかの段階も踏まず突然展示と対面できないのである。そこには必ずいくつかの条件を満たさなければならず、その多くが入口に集中しているのである。博物館の顔を展示ではなく入口にした理由はそれである。各種建築物の外観は、そこを訪れる人にとっては第一印象に当たる。そして階段やスロープ、門といった外的環境を通過すると、建物の内部へと入る。しかし入ったからといってすぐに目的――つまるところそれは博物館では展示であり、展示がまとめて配置されている場所を展示室と呼ぶ――の場所ではない。博物館だけではない。家にしろ学校にしろ会社にしろ、私達はその内部へ入るために、毎日必ず入口(玄関・エントランス・ロビー等すべてこれに当たる場所を総括して「入口」と呼ぶ)を通らなければならない。そこは建物の外観と連動して、まだ内部空間へと入るための準備期間であり準備空間と呼ぶことができる。
 入口と簡単に使ってしまったが、ここで一度入口について定義してみたい。入口とは、人が目的を達成するために入る建物の内部空間へとつづく準備空間であり、そこでは主に視覚・聴覚・嗅覚の三感覚と空気や気温などの肌感覚(触角)を使って判断される、アプローチ空間を含む外観から目的空間までの中間領域(インターフェイス)である。外観というのはただ建物の外壁のみを指すのではなく、その建物を取り巻く周辺環境を含んだ建物へ入るためのアプローチ空間をそう呼びたい。建物の内部空間とはその目的を達成するために作られた空間で、建築の壁によって外部と区切られ、また入口によって結び付けられている個別の区間と呼ぶこともできる
 つまり博物館に置き換えるならば、博物館の目的は展示であり、それをとりまく建築がその博物館の存在する街などの外部空間との境界線である。そして外部空間である周辺環境と内部空間である展示室は、入口という中間領域によって結び付けられていることになる。この中間領域は、外部空間にも内部空間にも属しつつ、一方でそのどちらにも属さないという特徴がある。(注一)資料一の図を見てもらいたい。この図が示すとおり、入口は博物館の外部環境から博物館内部へとつづくアプローチ空間からさらに内部に入り展示室とつづく博物館の中心空間までの間を指すものである。つまり、私たちが博物館に入る場合、
外部環境→入口(外的入口+内的入口)→博物館の展示室
という一連の流れがあることが分かる。詳しくは本論へと譲り、今一度博物館の入口に立ち返ってみたい。

入口の通過儀礼性を導く三つの問題
 これまでに、私は博物館の顔は入口であると述べた。それは、博物館の入口とは博物館に来る人(以下「来観者」)にとって博物館体験のはじまりであり、またその博物館のイメージを左右する重要な場所であると考えるからである。博物館の外観によって受けた視覚的第一印象は、建物へと入るためのアプローチ空間(外的入口)と建物の中へ入ってから展示室までのエントランスホール内(内的入口)の通過体験によって、さらに展示を見るための準備体験となり、博物館の内的空間である展示へスムーズに移行することを促すのである。つまり、いかに来観者にとって入りやすく、また開かれた博物館であり入口であるかが、その後の博物館に対する印象を決定付けることになるのではないだろうか。
 この博物館の入口における準備期間と準備空間をひとつの「しかけ」と解釈するならば、このしかけ自体を民俗学用語から拝借して仮に「通過儀礼」装置と呼ぶことにしたい。通過儀礼という言葉は、フランスの学者アルノルド・ヴァン・ジェネップが場所・状態・社会的地位・年齢等の変化に伴う儀礼に対して名付けたもの(注二)である。この通過儀礼を博物館の入口に当てはめるならば、場所の変化に伴う儀礼ということになる。しかしここで問題になるのは、はたして博物館の入口に儀礼と呼べるものが存在するのかどうかという点ある。一般的に通過儀礼の概念は特に民俗学上では人生儀礼と同義に使われており、あくまで宗教・呪術的儀礼を伴うものとされている。もしくは現代社会においては、学校などの年代社会の移行に対して用いられることがほとんどであり、博物館のように物理的な場所の移動にどこまで儀礼性が認められるのかを断言することができない。それと同時に博物館の『通過儀礼』性についても懐疑的である。なぜなら博物館の存在そのものが曖昧模糊としており、社会的にいったいどのような存在であるかをとらえきっていないからである。
 そこで、はたして博物館の入口は『通過儀礼』装置と呼ぶことができるのかという問いかけをすることで、しかけとしての博物館の入口をみていきたいというのが、この論の大きな疑問でありテーマである。そして、このテーマであり疑問を解決していくために次の三つの問題をあげることで解決の糸口を掴みたいと思う。一つはまず先ほども疑問にあげたが、「博物館とは何か」という問いである。博物館の入口を通過儀礼と呼ぶのであれば、入口を通過した後に入る博物館とはどのような場所であり空間であるのかを明らかにしなければ話にならない。次に「博物館の入口とは何か」である。博物館の入口を『通過儀礼』装置と断言してしまう前に、博物館にとって入口とはいったいどのような存在であり、位置付けを持っているのかを確認しなければならないだろう。そして最後に「通過儀礼とは何か」である。ここで通過儀礼についてジェネップの『通過儀礼』で確認し、はたして博物館の入口は『通過儀礼』呼ぶことができるか否かを検証して行きたい。
これらの論の展開をする上で、博物館の入口資料として日米あわせて約百の博物館を例にあげたいと思う。アメリカの博物館に関しては、二〇〇〇年度に武蔵大学の海外研修で訪問した〈注三)四都市における約四十館の写真資料をもとにする。また日本の博物館に関してもできる限り自分の足で訪れた館の写真資料を中心に集めることを課題とした。しかし博物館の建物内部の写真については日本の博物館事情により撮影禁止の場合が多く、出版資料に頼らざるを得なかった。また訪問先がどうしても東京を中心に限定されてしまうため、国立博物館を始め、日本の博物館の歴史上でも欠かせないと判断したものに関しては、各博物館の要覧や年報から資料を集めた。快く撮影を許可していただいた博物館にはとても感謝している。
 最後に、日本における博物館のイメージが非常にネガティブなものであるのは以前から指摘され続けている問題であるが、その改善策を各博物館は展示の内容にのみ注目して考えていることは非常に残念である。博物館の顔が展示である時代はすでに終ったと考えた方がいいのではないだろうか。もはや博物館は展示だけをどうにかすれば良いという考え方では先へは進めなくなっている時代である。日本でも今や生涯教育機関として、また、二〇〇二年度から導入されたゆとり教育の一環として、博物館は総合的学習の時間の受け皿としても注目されている。これからは従来の展示のみに偏った博物館体験だけでは、市民の要望に応えることは不可能だろう。
博物館の入口に焦点をあて、その通過儀礼性についてを論じていくつもりであるが、現代の博物館が抱えている諸問題や日米両国における博物館事情なども、自分の経験した体験などをもとに論の中で紹介していければと思う。

文章作成2002年7月8日
HP作成2003年1月6日 
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